同窓会効果

先日、大学時代の友人がこう言った。

知り合ってから、もう10年もたつのね。
人生の1/3も共有しているんだわ。

この友人が私のことをどう思っているかは知らないが、私のほうはこの友人のことを親友と思っている。
お互い包み隠さず多くを語ってきた。だから2人の間では共感できる言葉である。


しかし、実はこの言葉は十数人の大学同期の前で発せられたものであった。
これには違和感を感じた。別に「2人は特別な関係であり、他の人は普通の友達だ」と差別化したいわけでも、嫉妬しているわけでもない。
「みな一緒に過ごした時期があるから、今もみな一緒」という普遍的な共同体意識に強い違和感を感じるのだ。


同窓会を行うとあることが明確になる。
多くの人が「学業、体力、友達、家庭環境などから生まれたその当時の立場や関係を一生涯普遍のものだ」と考えているということだ。

たとえば、自分より出来が悪かった級友を、当時、格下に見ていて、「いまも」自分より格下だと思っていたりするのだ。
そして「自分よりも質の悪い生活をしていて当然」と普段から無意識に思っていたり、同窓会で会えば横柄な態度をとったりする。
「格下」のはずの級友が自分よりも立派になっていようものなら、それを「理不尽」とか「偶然」と捉え、むりやり当時の格下の立場に押さえ込もうとしたりする。


このバイアスを私は「同窓会効果」と呼んでいる。*1

昔、同じ時間を過ごしただけで、なぜ、そのときの立場や関係を普遍的・固定的に捉えてしまうのであろうか?
その後の立場の変化を、なぜ、「理不尽」とか「偶然」と捉えるのであろうか?
昔、同じ時間を過ごすことになったことこそ、偶然であるのに ....


三国志といえば「呉下の阿蒙」の逸話をよく思い出す。

(原文)
粛拊蒙背曰「吾謂大弟但有武略耳。至於今者、學識英博、非復呉下阿蒙。」
蒙曰「士別三日、即更刮目相待。」

(現代語訳)
魯粛呂蒙の背中をたたいて言う。「君のことをただ武勇一辺倒の人だと思っていたが、今では学識も豊かになり、昔の『呉下の阿蒙』ではないのだな。」
呂蒙が応えて言う。「士たる者は別れて三日もすれば大いに成長しているものです。次に会う時にはよく目を見開いて迎えねばなりません。」

[三国志・呉書・呂蒙伝・江表伝]


「旧友だからずっと知っている」と考えるよりも、「ひとがそれぞれに歩んでいる人生が、ほんの一瞬ある時期に交差した」と考えるほうがより真実に近いと思う。

そして成長する速度も時期もひとそれぞれなのだから、「呉下の阿蒙」の逸話の教えるとおり、再会する旧友をみくびってはいけないと自戒している。


どれだけ旧くから知っている友人でも、そのすべてを知っていると考えるのはおこがましい。
そのひとの一面、一瞬に触れただけである。

そう考えるから、私は「一期一会」という言葉が好きなのだ。

*1:もしかしたら心理学では、すでに違う言葉で定義されているかもしれない